rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

10月22日  北朝鮮分析の方法論をめぐる試論

 

 今日は余り注目される記事もなかったので、10月15日付けの記事の末尾に書いた「私独自の北朝鮮分析の方法論」を披瀝させていただく。

 なお、以下の論稿は、約2年前に自分の考えを整理するために執筆し、その後、ごく少数の知人にのみ供覧したものである。したがって、内容の一部に最近の状況にそぐわない部分もあるが、それは例示的な部分であり、「方法論」としては一定の今日的意義を有しているのではないかとの思いから、当時のまま公開したい。

 

     北朝鮮分析における相補的接近の有効性について 

はじめに:相補的接近とは

 北朝鮮の「核・ミサイル」開発活動の加速化などを受け、我が国では、北朝鮮指導部の路線・政策に対する「不可解」感が一層募っているかに見える。

 本稿は、そのような北朝鮮の路線・政策あるいは状況などを理解するための一つの方法論(以下、便宜的に相補的接近と呼ぶ)を提案し、その有効性を検討しようとするものである。

 ここで、相補的接近とは、一見矛盾・対立するかに見える概念について、どちらかが成立するためには他は絶対的に否定されなければならないという排他的な関係に限定して考えるのではなく、両者を統合し得る、あるいは両者が併存し得る状況ないし環境といったものの存在可能性を視野に入れて考えるという方法論を指す。換言すると、一見、競合的に見える概念が互いに補い助けあう効果を発揮する可能性を視野に入れるということである。

 もとより、何らの工夫なく単純に相異なる目標を同時に追求しようとすれば、「二兎を追う者は一兎をも得ず」となることは避けがたい。それら目標の「統合」を実現するためには、両者の間の矛盾を止揚し得る何らかの契機あるいは構造と言ったものを見出し、あるいは創出して、それを活用すること(それは、まさに「政治のアート」とでも称すべきことであろう)が必要・不可欠であろう。したがって、相補的接近においては、現実の状況の中で、そのような「アート」がいかに発揮されているのか、あるいは発揮され得る余地が存在するのかといったことについての見極めが求められる。

 このような見方(相補的接近)は、一定の判断力を持つ良識ある人々にとっては、北朝鮮分析に限らず世の中の事象を観察・分析する上で、ある意味当然の方法であるかもしれない。しかし、ここでそれを敢えて取り上げるのは、とりわけ北朝鮮に関しては、なぜか、そのような当然の視点からの分析が余り行われず、それを欠いたいわば一面的な分析が少なからず流布されているためである(これは、長年北朝鮮分析に従事してきた自己反省の意味も込めての述懐である)。

 

 先軍政治

 相補的接近の最初の具体的適用対象として、「先軍政治」という概念をとりあげたい。この言葉が北朝鮮の公式メディアにおいて盛んに用いられるようになったのは、1990年代末期であるが、それ以降、北朝鮮外部における多くの分析は、この言葉を、「軍(朝鮮人民軍ないし軍人)」と「政治(労働党ないしシビリアン)」の2項対立的な視点に立って、前者が後者に対し優位を占めるとの原理・原則を示すものとしてとらえてきた。

 しかし、相補的接近によれば、「先軍政治」の本質は、金正日を中心とする政治指導部が1990年代中盤の「苦難の行軍」期における混乱による党及び行政機関末端組織等の機能不全を補い体制の脆弱化に歯止めをかけるために、統制が比較的保持されていた軍を、国防という本来の任務の枠を超えて最大限に活用するものであったと捉えることができよう。

 すなわち、「先軍政治」の実践において、「軍と「政」は、必ずしも対立的・排他的なものとしてではなく、むしろ、より高度の目的(領導者を中心とする政治体制の保全・強化)を実現するための相互補完的な関係に位置付けられていたと考えられる。このような見方の妥当性は、当該時期において、たとえ一時的にせよ、軍が金正日をはじめとする北朝鮮の指導部に対して優位に立つような状況が生じたことを示す何らの根拠も得られないことによっても裏付けられよう。

 そして、軍をそのような形で活用するために重要な役割を果たしたのは、領導者(当時で言えば金正日)に対する軍の絶対的忠誠という観念であり、それを現実に担保したのは、軍内の党組織及び政治機関であった。今日に至るまで、軍内政治機関を総括する歴代の軍総政治局長が北朝鮮指導部における序列の中で、非常に高い位置(ほぼ常に人民武力部長や総参謀長よりも上位)を与えられてきたのも、軍の運用において党組織・政治機関を通じた指導・掌握が何よりも重要なものとして位置付けられてきたことを反映したものと言えよう。

 2000年代において北朝鮮の政治構造について、以上のような考察を欠き、「先軍政治」との表現を一面的にとらえた結果は、金正日の指導権を過小に、軍の影響力を過大に評価することにつながった。例えば、当時の非妥協的な外交姿勢や核開発について、「軍部の圧力によるもの」とする見方などがその端的な表れである。また、金正日から金正恩への権力継承に際しても、そのような評価が背景となって、いわば「金正恩=傀儡」説的な評価が主流となったが、それが誤謬であったことは、軍高官の打ち続く粛清などのその後の展開からも明らかであろう。やや後知恵的ではあるが、「先軍政治」について、上述のような形でよりバランスのとれた見方をしていれば、以上のような誤った分析は回避できたと考えられる。

 

 「併進路線」

 次に、北朝鮮における軍事と経済の関係について、相補的接近に基づいて検討してみたい。

 まず、前項に続き「先軍政治」の時期について見ると、やはり、その言葉に影響されてか、「軍事」のためには「経済」を犠牲にすることを厭わないものとの見方が一般的であった。しかし、北朝鮮は、「先軍政治」が呼号された1998年以降、周知のとおり核・ミサイル開発を着実に進展させる一方、経済面では、「苦難の行軍」時期の混乱状況を修復したのみならず、2012年4月までに「強盛国家の大門を開く」とのスローガンの下、各分野において過去の「全盛期」である1990年初頭時期の生産水準を回復すべく経済基盤の拡充を進め、概ね所期の目標を達成したと考えられる。

 このように軍事分野と経済分野への取り組みを二項対立的にではなく、総合的に推進していこうとの姿勢は、金正恩指導下で策定された「核建設と経済建設の併進路線」において一層端的に示されている。韓国との圧倒的な経済力格差に基づき、南北の軍事力において生じたアンバランスを埋め合わせ、自らの安全保障を確保するための方策として、北朝鮮が一定程度の核戦力を構築することは、韓国との間で、膨大な通常戦力の全般的かつ継続的な更新・近代化競争を進めることに比較した場合、それなりの経済合理性を有する選択とも言える。無限の「軍備競争」に巻き込まれることを回避することによって、経済開発に必要な財源を捻出することが可能となるからである。このような発想は、まさに北朝鮮自信が言明しているところである。

 また、金正恩政権下における現実の施策を見ても、対外的には「核・ミサイル」開発を推進する一方、国内的には、科学技術の振興をはじめとして、経済建設に相当な力量を注いでいることは疑う余地がない。対外的な緊張が高まった時期においてさえ、農業分野での干ばつ対策のために軍部隊を大々的に投入するなどの事実も、その端的な例と言えよう。「核・ミサイル」開発分野における成果は、対外的には、外交的な宣伝材料としてアピールされているが、同時に、国内的な宣伝の次元で見るならば、科学技術の重要性の強調及び経済建設に向けての動員強化(「全民総突撃戦」と称している)のための宣伝材料(最近の例を挙げれば「大陸間弾道弾を成功させた気勢で干ばつとの闘争に勝利しよう」とのスローガン)としても盛大に利用されている。

 もちろん、北朝鮮の核・ミサイル開発が国際的な経済制裁を招き、それによって円滑な経済建設が阻害されているという側面があることは否定できない。しかし、北朝鮮がそのような経済制裁を背景に「自強力第一主義」とのスローガンを新たに掲げて、原料・資材・技術・エネルギーなどの国産化に注力し、かねて「自立」を標榜してきた経済各分野における対外依存度を一層低下させていること、更には、国内的に国際的包囲状況を敢えて強調し、そのような苦境の克服・打開に向けた国民の発奮(そのエネルギーは経済建設への献身に誘導される)を促す宣伝材料として活用していることなどを勘案すると、核・ミサイル開発と経済建設がまったく矛盾するとは言い難いとも考えられる。

 国際的には、「北朝鮮指導部は、人民に貧しい生活を強いることによって核・ミサイル開発を進めている」というのが一般的な印象であろうが、少なくとも北朝鮮指導部の主観としては、「人民生活向上のためにも核・ミサイル開発は不可欠」であり、このような発想は、北朝鮮の人民にも相当程度共有されているとみられる。その背景には、北朝鮮の指導部及び人民の間で共有されている「長年にわたる大国からの圧迫・侵略の危険性とそれへの対抗・自立の必要性」という歴史認識・対外認識が存在しているのであろう。換言すると、そのような認識を前提として、「併進路線」が提起され、機能しているのであり、そのような認識への理解を欠く限り「併進路線」は矛盾に満ちたものとしか映らないことになる。

 

 「改革・開放」vs「計画経済」

 経済運営における、いわゆる「改革・開放」的要素と中央集権・指令的計画経済的要素の関係についても同様の視角からの分析が有効と考えられる。

 北朝鮮の経済政策に関しては、例えば、1984年における「合弁法」制定や企業自主権の強化などの動向、2002年におけるいわゆる「7.1経済管理改善措置」、近年には2014年の「5.30談話」に基づくとされる一連の動向などに関し、その都度、それら動向が中国流の「改革・開放」につながるものであるのか否かとの論点から、様々な分析が繰り返されてきた。

 今日の北朝鮮の現状に基づく結果論を述べるならば、それらの政策展開は、いずれもいわゆる「改革・開放」に直結するものではなかったのであるから、それぞれの時期に現れた特徴的な現象(例えば「合弁法」の制定、「公設市場」の設置など)だけに着目して、「改革・開放」の到来ないしそれに向けた全面的な路線転換を予測した分析が誤りであったことは論じるまでもない(それら分析の多くは、同じ社会主義国である中国が歩んだ軌跡との単純な類推あるいは北朝鮮にもそちらの方向に進んでもらいたい、ないし進むべきなどとの希望的観測に基づくものであったと思われる)。

 しかし、前述のような各時期における政策展開の中に、市場経済的要素の活用などといった、なにがしかの「改革・開放」的な契機・指向性がまったく存在しなかったわけでもない。したがって、北朝鮮の計画経済体制に何らの変化が生じるはずがないとみるのもまた、現実から目を背けるものであったと言えよう。

 むしろ、北朝鮮の経済政策は、経済運営方針は、市場経済的要素と計画経済的要素を相互補完的に活用することを目指すものであったと考えるべきであろう。そのような方針は、実は、かなり早い時期から示されていた。すなわち、金日成は、北朝鮮政権創建40周年記念報告の中で、「社会主義経済に対する指導、管理の原則」として、①党の政治的指導の下に国家経済機関の経済技術的指導を行う、②国家の統一的指導の基盤の上で各単位の創発性を発揮させる、③勤労大衆による民主主義の基盤の上で(管理部門による)唯一的指揮を行う、④政治道徳的刺激を主としこれに物質的刺激を正しく結合させる、ことを挙げていたのである(「主体の旗印を高く掲げ社会主義共産主義偉業を最後まで完遂しよう」『労働新聞』1988・9・9)。

 このような方針の下、現実の北朝鮮の経済運営において、「改革・開放」的な要素と計画経済的な要素は、複雑かつ有機的に絡み合って存在しており、そのような両者の関係は、「苦難の行軍」期の混乱状況の中においてさえ、なお維持されていた。その例として、「額上計画」と称されたものをあげることができる。当時、原材料不足などで操業困難に陥った企業所などは、所属する従業員に対して、一定の金員を支払うことを条件に職場への出勤を免じ私的な経済活動への従事を黙認(時に推奨)し、自らが実際に製品を生産する代わりに、このようにして上納された金員を利益金として政府に納入することによって、経済計画を達成したものと認められたというのである(伊藤亜人北朝鮮人民の生活』300ページ)。

 「額上計画」がどの程度一般的なものであり、また、今日まで存続するのか否かは定かでないが、いずれにせよ、それは、計画経済の空洞化と評価することもできる反面、市場経済的要素を計画経済の枠内に回収する動きとも言えよう。後者の見方を有効と考えるのは、当時の北朝鮮において、経済的には何ら意味のない費用を支払ってでも個人が名目的にせよ特定の企業所に所属することが必要ないし有利であるとの社会・政治的状況が存在したことに着目するからである。換言すると、上述のような「額上計画」制度は、そのような社会・政治的状況を契機として、「改革・開放」的要素と計画経済的要素が結合したものと言えよう。

 「額上計画」は、一時期に限定されたやや極端な事例かもしれないが、より長期に及ぶ普遍的な事例としては、いわゆる公設市場設置の動きをあげることができよう。一般的な見方としては、それは、北朝鮮における市場経済的要素拡大を示すものとして理解され、社会主義体制の脆弱化につながるものとの認識も少なからず見受けられる。確かに国営商店による流通を正統的なものと考えるならば、そのような見方に一面の真理が含まれることは間違いない。しかし、他方で、これまで、開設のみが許容されていた農民市場にいわば自然発生的に集まって営業活動を行っていた個人経営者を当局が設置した施設に集合させ、その営業活動(営業時間、販売従事者の性別・年齢、販売許容品目、最高価格など)に一定の制約を設けることができるとすれば、それは、むしろ、市場経済的要素を当局の指導下に組み入れるものといえる。さらに、そのような施設の設置によって、そこで働く人々を労働党傘下の組織(女性同盟など)に組み入れることも可能になろう。そのような組織の機能は、思想・生活の統制にとどまらず、例えば献金運動などの経済的な動員(収奪)にも及ぶのが一般的である。そうであるとすれば、公設市場の設置は、市場経済的要素を活用しつつ、伝統的な首領体制を整備・強化する動きにほかならないことになる。

 繰り返しになるが、前述のような各時期における北朝鮮経済政策の分析において本来なすべきであったことは、それが中国流の、あるいは北朝鮮流の「改革・開放」を意味するのか否か、といった単純な二者択一的な評価ではなく、「改革・開放」的な要素が、どのような形でいかほど存在し、またそれと同時に従前からの中央集権・指令的計画経済的要素がどの程度残されているのか、そして、両者がどのようなバランスの下で、どのような要素を契機として有機的に結合され、実現されようとしていたのかを総合的に把握することであったと考えられる。このことは、現在ないし今後の北朝鮮の経済政策を分析する上でも妥当しよう。

 

安全保障分野への適用

 以上、相補的接近を用いて、北朝鮮の国内政治・経済に関する再解釈を試みてきた。次に、そのような視角から対外的な安全保障分野における北朝鮮の路線・政策を検討してみたい。

 一般的に言って、北朝鮮(冒頭にも記した通り他の国にも妥当することであろうが)にとって、安全保障確保に向けた施策は、軍事と外交の両分野に大別できよう。前者としては、軍事力(軍隊)の実際的な運用に加え、軍事装備、戦時物資、軍部隊の士気・練度及び動員態勢など軍事力のハード、ソフト両面での構築・整備をあげることができる。また。後者としては、諸外国及び韓国との間での基本関係(国交、同盟、平和共存など)の設定・維持、各種交渉の展開、通商・人事往来などがあろう。現在、国際的に注目を集めている核戦力の構築が前者の、また「6者協議」参加などといったいわゆる「対話」が後者の一環であることはいうまでもない。

 今日、多くの北朝鮮分析は、この両者をいわば二律背反的にとらえて、どちらを選択するのか、といった視点から論じるものが多い。それは、国際社会の北朝鮮に対する願望(核を放棄して、「対話」による平和構築に進んでほしい、あるいはそうすべきである)を反映したものでもあろう。

 しかし、相補的接近の視点に立てば、両者は必ずしも相矛盾するものではなく、むしろ、それらが相互補完的に機能することによって、北朝鮮の安全をより確実に保障しうるものとして位置付けることが可能であろう。そして、軍事と外交という二つの要素を相互補完的に機能させる、換言すると両者を統合する担保は何かと考えると、それは、内外情勢に対する的確な情勢認識であり、それに即して両者を駆使する一種の「アート」であるということができよう。

 このような発想は、北朝鮮指導部が現在抱いている主観的認識とも近似のものと考えられる。彼らは、そのような発想の下、「敵の出方」をはじめとする時々の内外情勢を勘案しつつ、時に「強硬には超強硬」で対抗し、また、時に「平和攻勢」を採用するなど、両者の配合を調整しているのであろう。

 とりわけ、北朝鮮が抱いているとみられる米国(あるいは国際社会全体)に対する強烈な不信感を前提とするなら、「対話」において相手側の誠実な対応を引き出すためにも軍事面での努力を怠ることはできず、「対話」による平和定着のためにも「核」は不可欠という彼らの主張は、あながち強弁とばかりは言い切れないところがあろう。ただ、それと同時に言えることは、北朝鮮が長年にわたりまさに粒粒辛苦して構築した核戦力なり軍事力を有効に活用するためには、それを背景とした「対話」を通じて、具体的な「平和の配当」を獲得することが必要になるのであるから、その意味で、北朝鮮においても、「対話」の重要性は認識していると考えるべきであろう。

 したがって、北朝鮮が現在のところ、「対話」を無視するかのごとき姿勢を示しているのは、今はその時期にあらずとの判断によるものであって、「対話」の効用をまったく無視しているためではないということになる。換言するならば、北朝鮮は、今後、「対話」の機が熟したと判断するならば、従前の強硬的な言辞とは打って変わった態度で「対話」への取り組みを開始するであろう。ただし、その場合の「対話」も、以上に繰り返し述べてきたとおり、路線転換的なものではなく、あくまでも「軍事」面での努力を補完し、その成果を具体化するためものである以上、そのような軍事面での努力(つまりは核戦力)をまったく無効化することにつながるような方向に進むとは考えにくいところがある。

 以上のような視点に立つならば、北朝鮮の今後の対外政策の成否は、軍事と外交のバランスをいかに適切に維持するかにかかっているということになるし、現実のその方向性(軍事と外交のバランス)を左右するのは、北朝鮮指導部の対外認識、例えば、対話相手をどの程度信頼できると見るのか、どのような条件を得れば、あるいはどのような環境が準備されれば、自国の安全を保障し得るとの確信に至ることができるのか、といった極めて主観的な要素であると考えられる。前述のように軍事と外交の配合が「アート」によってなされる以上、そこに行為者の主観ないし感性といったものが強く介在することは避けがたいのである。

 なお、以上の議論は、北朝鮮の軍事・外交政策の究極の目的は、自国の安全保障確保にあることを前提とするものであった。一方、北朝鮮の対外政策の究極的目標は、「祖国統一の実現」すなわち韓国の併合であり、それに有利な情勢の構築を目指しているのではないか、自国の保全だけを目的としているとの見方はそれを見落としているのではないか、との指摘も可能であろう。

 しかし、北朝鮮は、1990年前後の時期、国際共産主義圏の崩壊などを契機に、韓国の併合という攻勢的方針から自体制の保全という守勢的方針へと大転換を遂げたと考えられる。それ以降、北朝鮮にとって「祖国統一の実現」とは、「1国家、1民族、2体制、2政府」という「高麗民主連邦共和国」の基本方式のうちの後段部分(「2体制、2政府」)の確保を意味するものとなった。すなわち、「祖国統一」の概念を実質的には、自体制の存続を担保するものへと変容させたのである。今日、北朝鮮は、「祖国統一の実現」に向けての努力を盛んに主張しているが、その実質的意味が以上のようなものである以上、そのような主張と北朝鮮の究極的目的が自体制の保全であることの間には、何らの矛盾も存しない(むしろ極めて整合する)と考えるべきであろう。

 また、仮に百歩譲って、北朝鮮の究極的目標が韓国の併合による実質的な意味での朝鮮半島統一(更に極論すれば世界の主体思想化)であるとしても、そのような目的実現のために、軍事と外交という二つの方法を、二律背反的にではなく、相互補完的なものとして統合的に運用しようとしており、両者の配合度合いは指導部の主観的情勢認識に強く影響されるとの視点の有効性は、否定されるものではないであろう。

 

 結びに代えて

 以上、相補的接近により、一見すると矛盾ないし混乱したものと見える北朝鮮の路線・政策について、ある程度、合理的な説明を加えることができたのではないかと考える。

 もちろん、ある政策が合理的に説明できるということは、必ずしも、その政策が最善の方策であるということでも、また、それが適切に推進されているということを意味するものでもない。本稿がそのようなことを主張するためのものでないことは論じるまでもない。

 本稿の狙いは、あくまでも北朝鮮の行動に内在する「北朝鮮なりの合理性」なり、その狙いを理解し、また、その成否をより的確に見極める上での着目点を把握ための方法論を提示することであった。その方法論としての洗練度はいまだ不十分であり、試行錯誤の段階にあるものと言わざるを得ない。しかし、少なくとも、そのような模索は、北朝鮮の行動について、「理解不可能」とか「狂気」といったきめつけを繰り返しているよりは建設的と考え、あえて駄文を呈した所以である。