rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

10月31日付け論説「事業における創発性は幹部が帯びるべき必須的徴表」

 

 敢えて直訳したが、「創発性」とは創造性と自発性を兼ねた意味で、北朝鮮ではしばしば用いられる表現。「徴表」は、特徴と言い換えても大きく違わないであろう。要するに、幹部(イルクン)に対し、創造的かつ自発的に仕事に取り組むよう訴える内容の論説である。それだけなら万国共通の話と言えるかもしれないが、諸々注目される点もあり取り上げた。

 同論説は、まず「創発的に仕事をしていくこと」の意味を「党政策を執行するために常に頭を使い、方法論と妙術(巧妙な方法の意味か)を探し出し、新しいものを創造していくこと」と規定している。すなわち、ここで言う「創発性」は、あくまでも「党政策」すなわち所与の目的なりゴールなりの存在を前提とし、それを実現するための方法論、具体策についての工夫や取組姿勢などとして要求されているのである。

 そこで、同論説は、「創発性」発揮の前提として、「党政策の真髄と要求を深く研究」することを求めている。何故なら「我が党の路線と政策は革命実践において提起されるすべての問題に完璧な解明を与える万能の百科全書」だからである。したがって、幹部は、まず、「自分の単位に下さった偉大な首領達の遺訓と党政策を一文字一文字一句一句、深く学習し自分の骨肉とし」た上で、「それに立脚し発展と飛躍の妙術を不断に探究適用していく」ことが期待される。それこそがまさに幹部の「組織的手腕、実務能力」とみなされることになる。

 なお、同論説は、ここで「妙術」について、一朝一夕にして無から有を導き出す手品のようなことを意味するものではなく、あくまでも常日頃からの粘り強い創意工夫に基づくものである旨、敢えて釘を刺していることを付言しておく必要があろう。

 同論説が「創発性」に関し、それに加えて要求しているのが「すべての問題を革新的眼目から見て、大胆に積極的に実践していく」ことである。ここでようやく「創発性」の真面目が提起されたと言えるかもしれない。その狙いは、ここに掲げられた言葉(の裏の意味)から推測するに、旧態依然たる方法、失敗を恐れた手堅い方法、必要に迫られて重い腰を上げるという消極的対応といった守旧的姿勢の払しょくを求めることではないだろうか。それら現象がまさに今日、北朝鮮各層幹部に蔓延する仕事ぶりであることは、本ブログでも指摘してきたところである。

 併せて同論説は、「創発性は大衆に徹底して依拠するとき高く発揚することができる」とも述べ、幹部の独走ないし独善的指導を戒めている。

 同論説の骨子は、概ね上述のとおりであるが、今、何故、それが掲載されたかを考えると、やや牽強付会かもしれないが、金正恩が10月27日に医療器具工場を現地指導した際の幹部批判(28日付け本ブログ記事で紹介)を受けてのことのような気がしてならない。更に言えば、10月18日の温室農場現地指導の際、金正日時代にモデルとされた農場(眉谷協同農場)をいまだにモデルとして掲げている一部幹部への批判に関連するとも考えられる。

 すなわち、同論説の趣旨に照らすと、それらの批判対象となった幹部の仕事ぶりは、まさに「創発性」の欠如の結果と言えるからである。前者に関して言えば、中央委員会からそこに派遣された幹部らは、同工場を全国のモデルとしてあらゆる面で最高の水準で建設しようとの金正恩の意図を充分に理解しておらず、技能工不足の状況への対応も消極的であった、ということになろう。また、後者については、金正日時代の遺訓を守旧的・形式的に墨守するだけで、その今日的状況に即した具体化の在り方について新たな取り組みを怠ったということになるのではないだろうか。

 金正恩のたび重なる幹部への叱責・批判を受けて、党宣伝扇動部が打ち出した対策の一つがこの「創発性」強調論説であったと考えられる。

 なお、話が脱線するが、上述の金正日が指導した眉谷協同農場をモデルとすることへの批判と先の金剛山訪問の際の「先任者」批判との関係について、既述の事項の繰り返しとなるが改めて確認しておきたい。韓国などの一部報道では、両者ともに金正日批判を含意するいわば一連のものととらえる向きもあるようだが、私は、両者はまったく別のものであると考える。

 後者については、10月27日の本ブログで詳述したように(金正日当時の判断を批判しているのであるから)、ある意味で金正日批判とも言えようが、前者は、10月18日ブログにおいて、また上にも記したとおり、過去のモデルを今日においてもそのままモデルとみなしていることを批判しているのであり、そこに金正日に対する批判を見出すことはできないと考えるからである。換言するなら、前者は、まさに「創発性」欠如の問題であるのに対し、前者は、いわば「自主性」欠如の問題と言うことになり、その点からも別種の問題と考えるべきであろう。