rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

10月30日  首領を「相対化」?

 

 今日も昨日に続き、「首領」に関連する問題を論じたい。10月27日付けの本ブログ記事の中で、金正恩の発言(「先任者批判」)に同行者が同調した発言をした旨が報じられたことについて、首領の地位を相対化するものではないかとの疑問を呈した。その後、そのような見方と符合するとも考えられる事項を他にも思い出したので、子細なことかもしれないが紹介したい。

 それは、去る7月から9月にかけて、金正恩立ち合いの下で実施された「新型戦術誘導兵器」などの発射実験に関する一連の報道の中で、当初は、同行した幹部について「〇、〇(同行した幹部氏名)が同行した」とのみ表現されていたのだが、8月17日付けの報道からは「〇、〇が共に指導した」と表現されるようになったことである。前者と対照した場合、後者の表現は、金正恩だけが指導したのではなく、同行した幹部も一緒に指導したということになり、ある意味では、金正恩を唯一絶対の存在として扱っていないことになる。

 また、10月28日付けの記事で記載した金正恩の幹部批判についても、考えようによっては、「俺に現場の細かいことまでやらせるなよ」という趣旨とも解釈できる。一般的な常識に基づけば、国のトップとしてはある意味当然の不満と言えようが、北朝鮮の従前の「首領観」からするとどうであろうか。天才的な叡知と超人的な努力によって、国家の隅々の事象に至るまで綿密・懇篤な指導、心配りを怠らない、というのが首領のモデルではなかったのか。もちろん、現実にそれができていたとは思えないが、それが理念形ないし理想の姿であったのではないだろうか。前述の金正恩の叱責は、本人の意図はともかく結果として、そのようなモデルを自ら否定しているようにも見受けられる。

 仮に以上に挙げた三つの報道振りが一連のものであるとした場合、その狙いないし向かうところは何であろうか。一つの可能性としては、金正恩を「幹部と協力し共に進む指導者」として印象付けようとの試みと考えることができよう。従前とは異なる新たな領導者像を志向する動きとも言える。もちろん、北朝鮮の報道全般を見れば、金正恩について従前同様に絶対的存在と位置付けるような表現がいまだ大半を占めており、上掲のような記事は極めて例外的なものであることは言うまでもない。早急な結論は避けなければならない。ただし、この点が長期的に注目を要する重要ポイントであることもまた間違いないと考える。