rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

2021年6月23日 李善権外相が談話を発表(6月24日記)

 

 標記談話は、昨23日に朝鮮中央通信を通じて公表されたもの。当初、大した意味はないと思ったので本ブログで取り上げるつもりはなかったのだが、日本のテレビニュースなどで、「北朝鮮外相が米国との接触を拒否するとの談話を発表」といった形で繰り返し報じられているので一言コメントしておきたい。

 まず、談話の内容は、極めて簡潔で、「外務省は、党中央委員会の副部長が米国の早まった評価と憶測と期待を一蹴する明確な談話を発表したことを歓迎する。」とした上で、「われわれは、惜しい時間を失う無意味な米国とのいかなる接触と可能性についても考えていない。」というのがすべてである(翻訳は朝鮮中央通信日本語版による)。

 この後段の部分が「米国との接触を拒否」と要約されて報じられているわけだが、果たしてそれは正しい要約であろうか。問題は、「惜しい時間を失う無意味な」という形容詞句の用法をどう考えるかであろう。例えば、「日本を象徴する富士山」というときの「日本を象徴する」は、「富士山」の属性を説明するものであって、「日本を象徴」する富士山とそうでない富士山の存在を前提とするものではない。一方、花屋に行って「白いバラを下さい」と言ったときの「白い」は、バラの一般的属性を示すものではなく、赤いバラやピンクのバラの存在を前提に、「白いバラ」を限定するためのものである。

 では、この談話の「惜しい時間を失う無意味な」は、「米国との接触」の一般的属性を述べたもの(つまり、米国との接触はすべて時間を失い無意味なものであるとの見方を示すもの)であろうか、あるいは、米国との接触には、「惜しい時間を失う無意味な」ものとそうでないものがあることを前提に、無意味なものに限定するために述べたものであろうか。

 外形的には、どちらの解釈も可能であろうし、日常会話的なセンスをもってすれば、一般的属性を述べたと解するのが自然な解釈かもしれない。しかし、同談話が発せられた政治・外交的文脈の中で解釈するとすれば、むしろ、後者の限定的な意味合いで用いられていると考えるべきではないだろうか。

 その根拠は、何よりも、先の中央委員会会議において金正恩が米国との「対話にも対決にも準備」するとの意向を示していることである。「対話」を行うためには「接触」が必要であろうし、また、「対話」は、「接触」に含まれる概念ともいえる。金正恩が準備すると言ったばかりの事柄について、外相がそれはすべて「惜しい時間を失う無意味な」ものと断言するなどということがあるだろうか。北朝鮮においては、絶対にありえないことである。

 そうであるとすれば、今次外相談話の趣旨は、「無意味な接触」を行うつもりはない、という主張ということになる。しかし、それは言うまでもないことであって、それを敢えて主張する狙いは、おそらくは(論理的に等価ではないが)、意味のある接触であれば行う用意がある、あるいは行いたい、との意向を表明することにあると考えられる。

 もう一つ興味深いことは、金正恩の前掲発言以来の流れをみると、それに米国の安保補佐官が「興味あるシグナル」と反応し、それに金予正が談話で応え、更にそれを受けて国務省報道官が「対話の窓は開かれている」旨コメントし、その後、外相が「無意味な接触」を拒否する意向を示すという形で、米朝間でのメッセージのキャッチボールが見事に実現していることである。

 そういう意味では、米国側が北朝鮮のメッセージを的確に判断し、かつそれに積極的に対応する意欲があるのであれば、今次談話の持つ否定的なイメージにもかかわらず、状況は悲観的な方向に向かっているわけではないとも考えられる。ただし、その前提条件(下線部)は、必ずしも自明なものではなく、むしろBig if というべきものであろうから、結論として、楽観もまた禁物と考える。