rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

1月29日 論説「国家経済の発展動力を回復する上で提起される重要な問題」

 

 標題自体が興味をそそるものである。「回復」という以上、何かが阻害されているという前提がうかがわれるが、それは何か、そして何によってか。それは、まさに北朝鮮指導部の自国経済に対する自己認識を示すものといえる。その上で、それをいかに「回復」しようとしているのかが示されることになる。

最初の問いに答えを示唆するのが、次の主張である。

 ①「(冷戦崩壊以来、北朝鮮に集中してきた)孤立封鎖策動によって、経済建設には厳重な障害が造成され、国家経済発展を阻害する一部非正常的で不合理であり散漫な現象も現れるようになった。」

 ②「すべての面で正常的な発展を志向している今日、過去の時期の過渡的で臨時的な事業方式から脱皮し、国家経済の発展動力を一日も早く回復することは、切迫した問題として提起されている。」(下線は引用者)

 この主張は、一見、やや矛盾しているようにもみえる。なぜなら、①では、阻害の原因は、「孤立封鎖策動」としているが、②では、それが継続している今日、その長期化が「既定事実」となっているにもかかわらず、「正常的な発展を志向」するとしているからである。結局、本当のところは、「孤立封鎖策動」は、問題の遠因(ないしは名目)に過ぎず、今、実際に改善すべき問題として提起されているのは、そのような状況の下で生じた下線部の「現象」なり「事業方式」と考えられる。では、それは、具体的に何を指すのか。ここまでの記述では必ずしも明らかでないが、次に掲げられるその解決策から、ある程度うかがうことができる。

 第一の解決策は、「まず計画経済の優越性を高く発揚させること」そのために「現実的で実現可能な計画を作成し、執行すること」である。とりわけ、「人民経済計画を客観的条件と可能性、潜在力を打算して作成」することが求められている。

 第二は、「科学技術を発展させることにより大きな力を注ぐこと」である。とりわけ、科学者・技術者に対して、生活条件などを保障するだけでなく、「世界を俯瞰する眼目を与え、成功へと後押しする正しい指導」が切実な要求としてあげられている。

 第三は、「勤労大衆の生産熱意をより高め、それが経済建設成果としてつながるよう経済管理を改善すること」である。そのための具体策として、「不必要な手続きや制度を整理し、生産活動に制動を掛け、生産活動を低下させる要素を漏れなく探し出し正すこと」「社会生活全般において働いただけ、稼いだだけ実績に応じて評価を受け、生きていけるようにする制度を徹底して立て、社会主義企業責任管理制を現実的に実施」することをあげている。

 なお、第三点については、「計画経済の優越性と科学技術の発展をはじめとした他の要因も、勤労大衆の主人らしい自覚と役割によってその作用が規制される」として、最重要の位置づけがなされている。

 以上の解決策を拠り所に、改めて「過去の臨時的で過渡的な事業方法」などの実態を推測すると、第一の解決策からは、経済困難の中で、経済計画の規範力が弱まり、そこで掲げられる種々の「目標」も現実性を欠いたものとなっていたことなどがうかがわれる。今後は、それを社会主義の本旨に即して正していこうということであろう。ここまでは、論旨が一貫しているように思える。

 一方、第二の科学技術重視は、近年盛んに主張されてきたところであり、それを更に加速しようとの訴え以上のものではないといえよう。

 更に位置づけが判然としないのが第三である。それは、従前、軽視されてきたのであろうか。とりわけ、「社会主義企業責任管理制」などは近年の産物であり、第一の「計画経済復旧」の基調からするなら、むしろ、「過去の臨時的で過渡的な事業方法」と呼ばれても不思議ではない制度といえる。しかし、同論説は、むしろ、それこそが第一、第二の要因の基礎となる要因として、重視しているのである。

 要するに、同論説は、中央集権的な計画経済システムを再整備すると同時に、それを科学技術の力と、成果主義的報酬システムの徹底による勤労者の勤労意欲向上によって支えようとの考え方に基づくものであると考えられる。しかし、それは、従前の北朝鮮の基本路線そのものではないだろうか。それが現在、機能しなくなっているから、改めて活性化しようというのであれば、何故機能しなくなったのか、その解明と改善が必要と思うが、それについてどう考えているのか、何をしようとしているのか判然としない。単純に考えると、「孤立封鎖策動」のためとも思われるが、「正面突破戦」の前提として、それは継続しても独力でやっていけるということなので、別のところに原因を求める必要が生じよう。それが幹部の消極姿勢なのか、それでは余りに精神主義に過ぎるようにも思えるが。更なる検討分析の課題としたい。