rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

6月15日 「太陽政策」補論

 

 先ほどのブログで「太陽政策」に言及したが、「6・15」20周年でもあるので、それに関し、若干の卑見を補足したいと思う。

 まず、その本質は何かということである。いわゆる「北風政策」との対照性に着目する余り見落とされがちであるが、両者は、その方法論に違いがあるにせよ、狙いにおいては。共に「旅人に外套を脱がせる」ことを目指すものである(少なくとも、語源となった「お伽話」においてはそうなっていた)。それが「太陽政策」の本質であると考える。

 昨今の文政権の宥和的な対北朝鮮政策に関していうと、その実行主体(すなわち政権自体)にそのような自覚がない、ないしないように見えるために、支持する勢力も反対する勢力も、そのような「太陽政策」の本質を没却してきたのでないだろうか。

 しかし、金正恩は、「賢明にも」と言うべきかはともかく、そのような「本質」に気づき、その効果によって、「外套」を脱がざるを得なくなることを防ぐために今回のような対応に出たのではないだろうか。

 ここで問題となるのは、北朝鮮に即して言う場合の「外套」とは何を指すのか、ということである。文政権では、それを「核戦力」と考えているのかもしれないが、北朝鮮側では、現存する体制(北朝鮮流に言えば「我々式社会主義」)と考えているのであろう。そのような視点からするなら、「ビラ付き風船」を飛ばす勢力も、支援の甘言を持って交流を呼びかけてくる文政権も、その狙いにおいては「同じ穴のムジナ」ということになる。むしろ、後者の方が国内に同調者が生じやすいだけに(現に、相当広範に生じているとみられる)一層危険・悪辣な存在と映っているのかもしれない。北朝鮮の体制安定という視点からするなら、韓国との間には一定の緊張感があった方が、「独裁」を正当化するという点などで好都合なのではないだろうか。

 「太陽政策」の本質をそのようなものと考えるなら、それは実は、南北の恒久的「平和共存」ではなく、最終的に「吸収統一」を目指す政策と言えよう。

 今、文政権(及びそれを支持する革新勢力)は、一時的な緊張激化にめげることなく北朝鮮との交流促進を粘り強く追及する姿勢を打ち出し、保守勢力はそれに批判的なようである。しかし、前述のような「太陽政策」の本質に照らすと、両勢力の目指すところ(革新=平和共存、保守=吸収統一)と、それぞれが実際に採用しようとしている政策の間には、一種の「ねじれ」があるように見える。私の目の錯覚であろうか。