rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

8月28日 金正恩の会議主宰状況が示すものとは

 

 一昨日の某衛星テレビチャンネルの報道解説番組で、北朝鮮の政治状況を取り上げ、このところ、①金正恩の主宰する各種会議の報道頻度が大幅に増加している、②それら会議の着席スタイルが、従前は金正恩一人が他の参加者と対面していたところ、最近では、何人かと共に並ぶ形で対面するようになった、③それら会議に報道に際し、従前は金正恩が「指導」と表現していたところ、最近では、「参加」と表現されるようになった、などの「事実関係」を指摘した上で、それらの背景として、経済不振などの責任ないしそれに伴う住民の不満などが金正恩一人に集中しないようにするための、いわば責任分散の思惑があるとの解釈を示していた。このような報道内容には非常に強い疑問を感じるので、以下に批判を加えさせていただく。

 まず、事実関係として示されたことのうち、①については異論がないが(本ブログでもかねて指摘)、②及び③については、果たしてそのようなことが言えるのか大いに疑問と言わざるを得ない。それを検証するため、2018年以降開催の中央委員会全員会議及び中央軍事委員会会議、今年に入って以降の政治局・政務局会議の開催報道から、それらについての事項を抜粋してみた(エクセルで表を作成したのだが、ここにうまくコピーできない。折角作ったので、希望される方は、私宛メールで請求いただければ、折り返しお送りします。「知人限定」ということになりますが、そうでない読者の方はご容赦ください)。

 結果として、まず②の着席スタイルについては、中央委員会全員会議に関して言えば、昨年12月の第5回会議では、政治局委員以上全員の10人以上が主席壇に着席しており、直近8月の第6回会議の5人よりも多かった、政治局会議に関しては、対面式の場合は番組指摘の傾向が認められるが、それ以外に以前から円卓式のスタイルも少なくない。

 また、③の金正恩の関与についての報道表現では、かつての「指導」に比較し、本年に入って以降は、参加者紹介の部分で「参加」としつつも、会議運営状況の紹介部分で「政治局の委任により司会」ないし「運営執行」と表現するスタイルが多い。直近の8月の会議でも「運営執行」との表現が用いられており、「指導」に比して関与の度合いが低下しているとはいえないと考える。

 総じて、当該番組における②及び③についての「事実関係」の提示の仕方は、はじめに結論(金正恩の関与が希薄化)ありきで、それに都合の良い「事実」だけを恣意的に抜き出して提示したものとの印象を禁じ得ない。

 それでも、①の事実は残るわけで、それをいかに解釈するかについては、番組のような見方(責任・批判の分散)も一概に否定はできないかもしれない。しかし、それは、いくつかの可能性ないし側面の一つに過ぎないことは、しっかり留保されるべきで、「決め打ち」のような表現は、世間をミスリードするものではないだろうか。また、そのような解釈の前提として、「食糧事情の悪化」などを既定の事実のごとく挙げているが、それも疑問である。ただし、ここでは、それについてはこれ以上論じない。

 では、ほかにどのような可能性があるのかと問われると、確信はないのだが、一つは、政治の制度化・正常化(政策等を指導者個人の恣意的決断によってではなく、会議での集団的討議を経て決定するというスタイル)ないし透明化(政策等が、いつ、どこで、いかに決められたかを明示)を進めているという側面、もう一つは、幹部の主体的・積極的な取り組み、責任感を促す、という側面を挙げることができる。前者に関しては、北朝鮮がかねて金正恩の業績として指摘していることであり、後者に関しても、本ブログで以前に紹介したとおり、「自分が手を挙げて賛成した党の決定なのだから責任を持ってその実践に努めよう」という趣旨の論調が「労働新聞」に掲載されていた。

 このような見方が正しいとしても、それはある意味で、金正恩の個人独裁ないし専制的な権威・指導権の低下あるいは相対化につながるものであり、結果的に金正恩の「責任」がある程度分散されるかもしれない。しかし、それは、番組で指摘されたような意味での「責任分散を狙いとした」動きというのとは、微妙に異なるものと考える。

 なお、念のため付言しておくと、私は、金正恩は、政策の失敗に対して「責任回避」などしないとの主張をするつもりはまったくない。ただ、その方法は、会議の主席壇の人数とか参加報道の表現などという不確実な方法によるもではないと考える。それら一連の会議に関しては、一人で熱弁を振るう彼の姿が常に報じられているのであり、そのような小手先の手法をいかに弄しても、「分散」の効果は極めて限定的でしかありえない。

 では、彼は、いかに責任を回避するかといえば、より効果的な方法として、「人民の力」及び「滅私服務」を主張することを指摘したい。そうすることによって、政策が失敗した場合は、そのような金正恩の指示にもかかわらず、「人民の力」を引き出せなかった幹部が責任を負わざるを得ず、人民生活で何か問題が生じた場合も、やはり、金正恩の指示に反して「滅私服務」を実現できなかった幹部がその咎を追わざるを得ないことになる。逆に、政策が成功し、人民生活向上が実現できた場合には、その「構想」を提示した金正恩の功績として称賛される、というのが私の考える「指導者無謬性」を担保する構図である。

 ただ、それにせよ、金正恩としては、政策の結果が大局的・最終的には自分にはねかえってくることは避けられないところであり、小手先の「責任回避」なり「分散」よりも、政策の成功すなわち「党の意思の実現」こそが最も腐心しているところであり、そのために何よりも重要なのが幹部の積極的な政策実現への取り組みを促進することであると考えられる。各種会議の開催頻繁化も、そのような文脈から理解するのがより自然ではないだろうか。

  なお、同番組では、コロナ防疫活動に関する金正恩の「一連の欠陥」指摘発言などをとらえて、コロナ蔓延を示唆するものなどとの解釈も示していたが、これが文脈からして無理な解釈であることは論じるまでもない。これも、最初に結論ありきの悪しき典型といえよう。