rodongshinmunwatchingのブログ

主に朝鮮労働党機関紙『労働新聞』を通じて北朝鮮の現状分析を試みています

10月27日 金正恩金正日を批判したのか?

金剛山での「先任者批判」再論)

 

 10月23日、金正恩金剛山観光地区を現地指導し、「他人に依存しようとした先任者たちの依存政策が極めて誤ったものであったと厳しく批判」したことが報じられた。

 本ブログ(10月24日掲載)では、それについて「金正日に対する批判と解する余地は確かに存在する。誰の決定であれ、改めるべきは改めるとの金正恩の強い姿勢の表れと考えるべきかもしれない。」と簡単に言及して過ごしてしまった。

 しかし、その後、私が尊敬するある北朝鮮研究家から、その趣旨を質す質問をいただき、ことの重大性を改めて認識するに至った。

 そこで、金正恩の今次批判の意味について、次の4つの設問に答える形で考えを整理してみたい。

  • 「先任者たち」とは誰をさすのか(金正日は含まれるのか)
  • 金正恩の批判の対象は何か(金正日批判なのか)
  • 金正恩がこのような批判をおこなった狙いは何か
  • 今後、金正日批判の拡大・本格化といった事態を予測すべきか

 まず第1点の「先任者たち」とは誰かについては、金剛山の観光開発を韓国側に「丸投げ」するような形で進めることを提案・計画した当時の指導部ということになろう。そのトップに金正日がいることは周知の事実であるから、「先任者たち」の中に金正日が含まれることは否定できないと考える。

 ただ、ここであえて「先任者たち」と複数形を用いたのは、今次現地指導の同行者に党中央委員会統一戦線部長らが含まれており、金正恩及び彼らのそれぞれの「先任者たち」を指した結果とも言えようが、批判が金正日個人に集中することを避ける配慮があったとも考えられる。

 次に第2点の金正恩が批判した対象は何かと言えば、報道文でも明らかなとおり、「先任者たち」の「誤った政策」である。そのような意味で、今次批判を「金正日批判」とみなすのは適切とは言えないであろう。今次批判は、金正日(及びその周辺幹部)による特定の政策が誤っていたと批判するものであり、金正日ないし金正日一派に対する人格的あるいは包括的な批判ではない。以上の主張は、やや無理筋のように聞こえるかもしれないが、その趣旨は、次の第3点の検討を通じて一層明らかになるであろう。

 第3点すなわち今次批判の狙いは、金剛山観光における韓国への「丸投げ」つまり対外依存的な政策・姿勢を批判し、「自力更生」路線を基調とした開発への転換を図ることにあったと考えられる(ここでは、対韓政策的な狙いについてはひとまず措く)。その直後の温泉観光地区建設場訪問などの行動を勘案しても、金正恩の今次金剛山訪問は、「観光開発」推進の流れの中で行われたものであって、金正日ないし金正日一派を批判するために敢えてそこを訪れたとは考え難いのである。

 換言すれば、金正恩は、「自力更生」路線の正当性を主張する上で必要であったから「先任者たち」の政策を批判しただけであって、それ以上でもそれ以下でもないということではないだろうか。

 以上の推論に基づけは、第4点の答えは、当然、「No」ということになる。今次批判をもって、金正恩が「金正日批判」キャンペーンを始める兆候と考えるのは余りに早計と言わざるを得ない。

 なによりも、北朝鮮の体制にとって、そして金正恩個人の権威確保と言う点からも、「先代首領たち」の権威を保全し、金正恩が彼らの正統かつ忠実な継承者であるとの建前を堅持していくことは、絶対的に必要であろう。したがって、金正恩を「最高領導者」とする現在の指導体制が続く限り、「先代首領たち」に対する尊崇の姿勢は揺るがないであろうし、いわんや「スターリン批判」の再来のような形での「金正日批判」が起きるとは想像しがたい。

 ただし、金正恩は、その一方で、当面の政策展開において必要であれば、金正日のかつての決定・措置を覆し、また場合によっては、今次批判同様それを公開的に批判することも躊躇しないであろう。金正恩は、執権後8年近くの期間を通じて、それができるだけの権威を構築できたと考えられる。

 冒頭に予定した設問に関する検討は以上のとおりであるが、率直に言うと、それにしても、これほど手厳しい批判が必要であったのか、金正日に対する個人批判ではないにせよこのような批判は「首領の無謬性」という従前のイデオロギーと抵触するのではないかとの疑問は、なお完全に払拭できない。

 そのような疑問に対しては、とりあえずの思いつきであるが、次の二つの仮説をあげておきたい。

 第一の仮説は、当面の問題として、金正恩が「韓国依存」政策を痛烈に批判しなければならない今日的必要性、すなわち韓国文政権への対応に関する政策をめぐる国内政策的必要性に迫られているとの可能性である。まったくの推測であるが、北朝鮮国内に、文政権から繰り返される熱烈な「ラブコール」に対し宥和的な対応を(潜在的にせよ)期待ないし主張する勢力が存在し、かつて金正日が韓国との協調路線により巨額の外貨獲得に成功したことがそのような期待・主張の根拠の一つとなっているとすれば、それを抑え込むためには、今回のような批判が必要であったとも考えられる。

 第二の仮説は、金正恩の考える「首領」の概念が従前のそれとは若干異なるものである可能性である。彼が本年3月の党初級宣伝活動家大会に送った書簡の中で「首領の神秘化」を戒めたとの報道(ただし北朝鮮の資料上では未確認)もあり(下線部分、11月25日修正加筆)、首領といえども絶対的に無謬ではない、首領の決定・措置であっても是正すべきは是正しなければならない、ということを主張したいのかもしれない(金正日は首領なのか、という問題については、私はそう考えているが、それに関する議論はここでは割愛する)。

 しかし、言うまでもなく、そのような「首領」概念の変更は、当面、金正恩が過去の政策を変更し、新たな政策を展開していく上では有用であるかもしれないが、一方で彼自身に対してブーメランのように襲い掛かってくる可能性も内包している。そのような可能性は、「先代首領の評価はその後継者のみが行える」旨の理論で封じることができるとも考えられるが、これまで絶対的なものとされてきた「首領」概念を相対的なものとするのは、いわば「パンドラの箱」を開けるに等しい危険な賭けと言わざるを得ない。この点について、金正恩がどのような方向に進もうとしているのか、現時点で予断はできないが、注視に値する問題であることは間違いないであろう。